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第2話 母はもう結婚していました

last update publish date: 2026-09-15 20:16:59

第2話 母はもう結婚していました

 母と和臣さんは、玄関に立ったまま固まっている私たちを、事情が分からないなりにも微笑ましいものとして受け取ったらしい。母は頬に手を添えて、「同じ学校だとは聞いていたけれど、もう冗談を言い合えるくらい親しかったのね」と、ずいぶん都合のよい解釈を口にした。

「親しいという言葉を、今日ほど信用できないと思ったことはありません」

 御影先輩が濡れた傘を閉じながら答えると、私は玄関の内側へ一歩下がった。家へ入れるために道を空けただけなのに、彼は私が避けたと受け取ったようで、わずかに眉を寄せた。

「そこに立たれていると入れないのですが、朝倉さんは客を玄関先に置いたまま夕食を始める家庭で育ったんですか」

「今日は客として来たんでしょう? それなら、最低でも玄関で五分くらい待つ慎みがあってもいいと思います。そもそも、御影先輩を家へ入れたら、壁に校則を貼り始めそうで怖いんです」

「家の壁へ貼るのは校則ではなく、共同生活に必要な注意事項です。もっとも、君と暮らすことになるなら、数枚で足りるとは思えませんが」

「二人とも、まだ五分も話していないのに、どうしてそんなに息が合っているの?」

 母がうれしそうに尋ねたため、私と御影先輩は同時に顔を向けた。息が合っているのではなく、単に互いの言葉が神経へ触れやすいだけなのだが、それを説明すれば、今日の全校集会についても話さなければならなくなる。

「学校で何かあったわけではないのよね?」

「何もありません」

「教育方針を巡って、多少の意見交換をしただけです」

 私と御影先輩の答えが重なった。母はますます疑わしそうな顔になったものの、和臣さんが「怜央、いつまで玄関にいるつもりだ。美月さんが料理を用意してくれているんだから、まずは上がりなさい」と声をかけたため、追及はいったん終わった。

 御影先輩は私の前を通るとき、小声で「何もないという答えでは、かえって疑われます」と注意してきた。

「御影先輩の答えだって、内容をぼかしただけでしょう」

「少なくとも、嘘は言っていません。全校生徒の前で一方的に喧嘩を売られたことを、教育方針を巡る意見交換と表現してあげたんですから、感謝してほしいくらいです」

「私だって、先輩に前世の罪を押しつけられたことを黙ってあげたんです。これで貸し借りなしですからね」

 私たちが声を潜めて言い合っている間にも、居間では母が張り切って料理を並べていた。ローストビーフ、海老と野菜のマリネ、きのこのスープ、母の店でも人気がある小さなチーズパンが、二人暮らし用の食卓へ隙間なく置かれている。

 普段なら料理を見るだけで機嫌がよくなる私も、今日ばかりは椅子の配置に目を奪われた。母と和臣さんが隣り合い、その向かいに私と御影先輩が並ぶようになっている。まるで、親二人と子ども二人からなる家族の完成予想図を見せられているようだった。

「私、そちらに座ってもいい?」

「どうして? ひまりは怜央くんの隣でいいでしょう。同じ学校なら、私たちより話題も合うと思って、わざわざそうしたのよ」

「話題なら合うよ。主に、匿名相談の管理責任と、規則を守ることの意味についてだけれど」

 私が嫌みを込めて答えると、御影先輩は椅子を引きながら、何事もなかったように口を挟んだ。

「俺はどこでも構いません。席順だけで夕食が平和になるとは思えませんから、早く座ったほうが建設的です」

「そういうところなんですよ。まだ誰も喧嘩を始めていないのに、私が食事中に暴れるような言い方をしないでください」

「誰も君が暴れるとは言っていません。俺は平和にならないと言っただけで、原因が誰なのかまでは決めていません」

「分かりましたから、二人とも座りましょう。料理が冷めたら、美月さんが朝から用意してくれたものが台無しになってしまう」

 和臣さんにたしなめられ、私たちは不満を残したまま隣り合って座った。肩が触れるほど近いわけではないのに、学校でいつも正面から睨み合っている相手が横にいるだけで、食卓がひどく狭く感じられる。

 乾杯をしたあと、母と和臣さんは出会ったときの話を始めた。和臣さんの会社が古い建物を宿泊施設へ改装する際、母の店へ焼き菓子の提供を依頼したことがきっかけだったらしい。打ち合わせを重ねるうち、仕事とは関係のないことまで話すようになり、一年前から交際していたという。

「一年前って、そんなに長く付き合っていたの?」

「長いと言っても、最初の半年は、お互いに仕事の相談をしているだけのような関係だったのよ。ひまりに言わなかったことは謝るわ。でも、まだどうなるか分からない段階で話して、余計な心配をさせたくなかったの」

 母の言い分は理解できた。しかし、一年という時間を聞いた途端、自分だけが母の生活の外側に置かれていたような寂しさが胸へ広がった。

 私はローストビーフを切り分けながら、できるだけ平静な声で尋ねた。

「それで、結婚するのはいつなの? 先に一緒に暮らしてみるのか、それとも式を挙げてから引っ越すの?」

 母は持ち上げかけたグラスをそっと置き、和臣さんと顔を見合わせた。先ほども見たやり取りだったが、今度は二人とも、明らかに何かを言いにくそうにしている。

「ひまり、怒らないで聞いてほしいのだけれど、私たち、今日の午前中に婚姻届を出してきたの」

 手元からナイフが滑り、皿の縁に当たって甲高い音を立てた。隣を見ると、御影先輩もスープへ運びかけていた匙を止めている。驚いたのは私だけではないらしい。

「ちょっと待って。さっき、お母さんは和臣さんと結婚しようと思っていると言ったよね。それは普通、これから結婚する人が使う言葉で、もう結婚した人が使う言葉じゃないと思うんだけれど」

「それは、順番に説明したほうがいいと思って……」

「説明の順番を考えている間に、事実の時系列が逆さまになってるよ。私が反対したらどうするつもりだったの? 婚姻届を取り戻しに行くの?」

 声を荒らげるつもりはなかったが、抑えようとするほど語尾に力が入った。母は膝の上で手を握り、私の目を見ながらも、すぐには答えられなかった。

 代わりに、和臣さんが深く頭を下げた。

「本当に申し訳ない。美月さんだけの責任ではありません。今日まで君たちに話せなかったのも、婚姻届を提出してから報告しようと決めたのも、私です。反対されれば結婚をやめるつもりだったのかと聞かれたら、正直に言って、やめるつもりはありませんでした。それなのに、先に相談するような形を取るのは、かえって君たちへ重い責任を負わせると思ったんです」

「責任を負わせたくないなら、せめて決める前に教えてほしかったです。許可を取れと言っているわけじゃありません。ただ、私たちの生活まで変わるのに、全部決めてから知らされるのは、責任を負わせないこととは違うと思います」

 自分の言葉に熱がこもりすぎたと気づいたとき、隣から御影先輩の静かな声が聞こえた。

「父さん、僕に話したのも昨日でしたよね。その時点で、婚姻届を出す日まで決めていたんですか」

 和臣さんは、息子に対しても言い訳をしなかった。

「決めていた。ただ、怜央には一晩考える時間を与えたかった。今朝までにどうしても受け入れられないと言われたら、提出を延ばして、改めて話し合うつもりだった」

「一晩で、母さんの代わりになるかもしれない人を家族として受け入れられるか考えろというのは、ずいぶん難しい課題ですね。父さんなら、提出期限が短すぎる企画書は作り直させるでしょう」

「そのとおりだ。仕事なら、こんな進め方はしない。だからこそ、仕事よりも臆病になってしまったのかもしれない」

 和臣さんの声から力が抜けた。隣にいる母は、申し訳なさそうにうつむいている。二人とも幸せになるために結婚したはずなのに、祝ってもらえるか不安で、最後まで子どもたちへ言い出せなかったのだ。

 大人だからといって、いつも正しい順番で決断できるわけではない。分かってはいても、だから怒ってはいけないとは思えなかった。

「少し、外の空気を吸ってくる」

 私は椅子を引いて立ち上がった。母が心配そうに名前を呼んだが、今ここで話し続ければ、本当は言いたくないことまで口にしてしまいそうだった。

 集合住宅の共用廊下へ出ると、いつの間にか雨は弱まっていた。濡れた道路が街灯を反射し、遠くを走る車の音が、夜の湿った空気にぼんやりと溶けている。

 手すりに肘を置いて呼吸を整えていると、背後で扉が開いた。

「一人になりたいので、ついてこないでください」

「俺も外の空気を吸いに来ただけです。この建物の共用廊下は、朝倉さんの私有地ではないでしょう」

 振り返らなくても、誰が来たのかは分かっていた。私が黙っていると、御影先輩は少し離れた場所で手すりにもたれた。普段なら私の姿勢が悪いと注意しそうな人が、自分も同じように肩を落としている。

「御影先輩は、平気なんですか。昨日まで知らなかった人が、今日から母親になるんですよ」

「平気に見えるなら、学校で作っている表情が家庭でも通用しているようで安心しました。実際には、昨日ほとんど眠れませんでしたし、今朝は父とまともに話していません」

「それなのに、食事中はずいぶん冷静でした」

「君が二人分怒っていたので、俺まで声を荒らしたら話が進まないと思っただけです。それに、美月さんは父を騙しているわけでも、母の場所を奪おうとしているわけでもない。頭では分かっていますから、感情が追いついていなくても、無関係な相手へぶつけるつもりはありません」

 相変わらず正しいことを言う人だった。けれど、体育館で聞いた正論とは違い、その声には隠しきれない疲れがあった。

「私は、お母さんを責めたいわけじゃありません。あんなにうれしそうにしているのを見たら、本当は祝ってあげたいんです。でも、私が寂しいと言ったら、お母さんは結婚を後悔するかもしれない。だから笑っていなきゃいけないと思ったら、余計に腹が立ってきてしまって……」

「俺も似たようなものです。父が鼻歌を歌っているところを、昨日初めて見ました。母が亡くなってから、一度も聞いたことがなかった。あんな顔を見せられたあとで、再婚してほしくないとは言えません」

 御影先輩は街灯の向こうへ視線を向け、少し間を置いてから、自嘲するように口元を緩めた。

「親が幸せそうにしていると、子どもは不満を言うだけで悪者になった気がする。だから、先に全部決めた父たちのやり方は卑怯です。選択させないことで責任を負わせなかったつもりなのでしょうが、俺たちは喜ぶ以外の答えを出しにくくなっただけですから」

「御影先輩でも、そんなふうに思うんですね」

「俺を何だと思っているんですか」

「正しい手順で組み立てられた人型の校則集です。感情より先に目次がついているような人だと思っていました」

「それなら君は、注意書きを読まずに開封されて、制御不能になった玩具でしょう。返品期限まで切れています」

 私が睨むと、彼もこちらを見た。数秒の沈黙が落ちたあと、どちらからともなく小さく笑ってしまった。仲直りをしたわけではないし、突然親しくなったわけでもない。ただ、食卓では出せなかった感情を、同じ立場の相手へ少しだけ見せられたことで、胸の中の息苦しさがわずかに薄らいだ。

「先輩は、これからどうするつもりなんですか」

「父の結婚を壊したいとは思いません。ただし、すぐに美月さんを母と呼ぶ約束も、君と本当の兄妹のように振る舞う約束もできません。できないことをできると言って、あとで全員を失望させるよりは、そのまま伝えるつもりです」

「私も、お母さんの結婚には反対しません。でも、何も不満がないふりはしません。家族になったからって、昨日まで知らなかった人たちを急に好きになれるわけじゃないもの」

「その点だけは同意します。特に君を妹として好きになれる日は、かなり遠いでしょうね」

「私だって、御影先輩を兄として慕う予定はありません。お母さんたちを困らせない程度に、必要なときだけ協力すれば十分です」

「では、当面はそれでいきましょう。互いに余計な期待をせず、親の結婚を邪魔しない。ただし、学校での問題を家庭へ持ち込まないことも条件に加えてください」

「御影先輩が、家でまで生徒会長の顔をしなければ考えます」

 正式な約束ではなかったが、私たちはひとまず同じ結論にたどり着いた。敵同士の休戦協定としては、悪くない内容だったと思う。

 居間へ戻ると、母と和臣さんは料理にも手をつけず、私たちを待っていた。私は母の向かいへ座り直し、今すぐ何もかも受け入れることはできないけれど、結婚そのものには反対しないと伝えた。

 御影先輩も、自分の気持ちが追いつくまで時間がほしいと父親へ話した。和臣さんは「分かった」と答え、母も涙をこらえながらうなずいた。

「ひまり、本当にごめんなさい。結婚したことだけでなく、もう一つ、まだきちんと話していないことがあるの」

 母が再び言いにくそうな顔をしたため、私は嫌な予感を覚えた。今日はすでに、人生で受け止められる驚きの上限を超えている。

「これ以上なら、明日にしてほしいんだけれど」

「そうしたいのは山々だけれど、引っ越しの準備があるから、今日話さないと間に合わないの。来週の土曜日、私たちは和臣さんの家へ移ります。この部屋も、今月末で引き払う手続きを済ませてあるのよ」

「引っ越すって、私も?」

「ひまりを一人だけ残していくわけにはいかないでしょう。怜央くんの部屋と同じ二階に、ひまりの部屋も用意してもらっているの。廊下を挟んだ向かい側だから、学校のことや勉強のことで困ったら、いつでも相談できるわね」

 母は良い知らせのつもりで話していたが、私には処刑の日程を読み上げられているようにしか聞こえなかった。

 恐る恐る隣を見ると、御影先輩も初めて聞いたらしく、眉間へ深い皺を寄せている。父親から「部屋の配置は美月さんと相談して決めた」と告げられた彼は、今度こそ冷静な表情を保てなかった。

 一週間後、私は学校一苦手な生徒会長と、同じ家で暮らす。

 しかも、私の部屋の扉を開ければ、目の前には彼の部屋があるらしい。

 先ほど結んだばかりの休戦協定が一週間後まで保つとは、その場にいた誰も本気では信じていなかった。

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